사카모토 나카오카 암살 사건

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坂本中岡暗殺事件
谷干城

다니 다테키(谷干城)
1837-1911

此時已に幕府政治を廢し王政に復古するの主意は定まつてをる後藤が慶應三年の十月頃に大政返上の建白を出したがもとの樣に心得て居る人もありますが決してさうでない坂本等の開國家が本で六月にチヤンと斯う云ふ成文の主旨書が出來て居る土佐政府卽ち山内家は六萬石の身より徳川家の蔭によりて廿四萬石の大封を受け又大祿の上士は多くは譜代恩顧の者にして重役は多く此種の人が占むる處なれは政府の議の時々變化するも誠に己を得ぬ次第なれば小松邸の盟約は土佐政府を離れ一種秘密の盟約なりしが其の年十月頃には坂本も上京し中岡と力を合せさう云ふ鹽梅で多数の士族と云ふものは皆元親浪人であるけれども少数の上士は大抵皆他國から來た所謂譜代恩顧と云ふ風な者でありますから何分其軋轢が甚しいそれが卽ち此坂本中岡兩人が最初國を見捨て直接に勤王をする積りであつたものでとう/\浪人した結果是は迚も浪人では事が出來ないそうして上士と下士との間を調和し所謂擧國一致でなければならぬと云ふ考から非常な盡力をして遂に之が成就をして守舊派の一種を除くの外は先づ土佐の有志と云ふものは上士下士打混じて國に盡すと云ふことに漸く纏つたそれは坂本中岡兩人の力である兩人が一時に殺害に遭ふたは素より天下の爲に不幸でありますか最も土佐の國の爲には非常な不幸である若し此兩人がせめて伏見の戰時分迄生きて居つて吳れると土佐に於てハ尤好都合てあつたか半途に斃れたハ誠に遺憾至極であります全體兩人は天下へ出て有志として働いた事は皆人が知つて居るが隱微の間故國に盡した忠義ハ知つた人が少いから序に此御話を申上けて置くのでありますも一つ頑固黨の勤王涙に對する軋轢の情態を證據を擧けて御話して置きたいと思ふちよいと面倒でありますが板垣の慶應三年十月に寄越した手紙を讀みます。

日益に霜冷に相向候處於其御表御壯榮に可被成御入奉欣喜候小生義無異儀に罷在候間乍憚御安意可被下候御發足後御國許之義委細申上度候得共此頃御飛脚便等に托し候書簡は間違も有之哉と存候間時勢之義は何も不申上候唯京師の模樣のみ相待居申候乍併一事不得不報事柄御座候子細ハ過日豐永久左衛門關東より僕か中村への私簡を携來り榎派に合して姦を爲し申候實に無由事にて今に始めず殆と姦術に係り申候然昔書簡等所謂仰天俯地に無所恥事明白之義當時同僚等の示談により候義に付快然辨斷悉く姦計をば脫し申候御安心可被下候然るに右久左衞門なる者近日又東行仕趣京師に至ても何等の姦を爲し候も難圖關東迄も同斷之義ニ付精々御用心可被成其故に申上候間屹度御覺悟被成度奉存候心事固ヨリ筆頭に難盡候御推察可被下候恐惶再拜

十月十八日
退   助


是から此兩人の殺された實況を御話し申ますが先つ近畿評論第十七號に掲けたる坂本中岡を殺害した者は我れなりと自稱する今井信郎と云ふ人の言より述へませう此今井氏は今遠州金谷ケ原と云ふ所に居る樣子てある此人の云ふ所に依ると自分は徳川幕府の旗本てあり三河からして權現樣ニ附いて來た所謂三河御譜代てす代々軍學家て祖父の時には御師範を勤めた家で劍術は榊原健吉の門人で可なり人を教ゆる事も出來る位に成りました時世は騒かしくなり筑波山の騒きとなり自分も斯うして居ては詰まらんと面白半分に飛び出し云々と上京する迄の經歷を述へて次に關東に浪士の入り込み百姓や博徒を集めて劍術を教へ窃に勤王討幕等の事を說法して居る此は中々油斷がならんと考へ關東郡代に其事を通じ近在の若者を集めて劍術師範をして暫く滯在しそろ/\農兵養成に着手いたした事を述へ徳川氏の爲に忠義を盡す理由が說明してあります慶應三年天下も益騒しくなり其の年十月上京して幕府見廻組佐々木只三郎に頼つて組頭に成つて居た此佐々木と云ふ者はなか/\强いやつて卽ち彼淸川八郎を殺した者でありますか是れなと此佐々木只三郎か殺したと云つてまあ自分の經歷から交る人のことを擧げて來たそれからして云ふてあるに是より少し前に紀州の光明丸と云ふ船と土佐の夕顔と云ふ船とか内海で衝突した其の時に紀州からして三浦久太郎か全權て出て土佐から坂本龍馬か出て來て交涉して遂に其の結果坂本か向ふをあやまらして償金を取つた其の時の樣子か書いてある所で此處で先つ一つ誤つて居るか其誤は大きな誤てはないのてありますか何しろ當時のことを聞きこすつてからに揑造したものと思はるゝは此光明丸と衝突した船は決して土佐の夕顔てはない是は當時誰も知れる明なことて大洲の加藤家の所有名義になつて居つたいろは丸と稱へる船てある其いろは丸と云ふ船と光明丸と衝突してそして遂に色々談判の結局紀州から償金を取つた『此時か汽船か衝突の嚆矢てあつて勝麟太郎氏に坂本等は相談したことか有つた勝の答に素人と素人の船票は孰れか理か非か判かる歟と云つたと聞けり』のは事實てあるか併なからいろは丸は決して土佐の船てはない是れは八ケ間敷論てあつたから當時いろは丸と夕顏と間違ふ筈はない此も後て揑ね付た誤りてはないかと疑ふ阪本は文久二年に脫走し處々を浪々して勝氏の世話に成り勝氏は坂本か非凡の器なるを知り容堂に說て歸藩を許されたり光明丸といろは丸との爭も土佐政廳は關係せず實は紀州と坂本との争なり海援隊は元浪人の集合にて坂本之を率ひ後藤之を助力せり

そこで其の人の言ふに自分も佐々木の世話になつて今で言へは警視みた樣な役をした時に丁度彼の紀州を窘めて償金なとを取つた海援隊を率ひて坂本龍馬がこれに來合はして居るそこてこいつは『氏又曰く私が參りました時坂本は春嶽を說て歸て來たところでした彼れは策士て海援隊を率ひ中々きれたものてす此云ふ奴を生かして置ては御爲にならぬと思ひましたから一つやつけて仕舞ふ向ふも大勢たから此方も同志をつのろうと云のて寄々相談なと致しました』何分天下の爲にも國家の爲にもならぬとうしても生かして置かれぬと云ふことを考へ付いたそれてまあ寄り寄り相談して之を殺すと云ふことをした何處に居るかと云ふた所か河原町鞘藥師の隅のあくら屋の二階に居ると云ふことが知れた其の名は才谷梅太郎と云ふ其實坂本龍馬であるから愈々之を殺さうと云ふことになつたこゝまでは先つとうやら斯うやら筋は合ふのでそれから其次にすつと手順が出て居るこゝに卽ち此殺害したと云ふ人の言ふに御承知の如く當時は一體に氣が立つて居るスワと云へは辻斬にすると云ふ始末てあるから御互に充分用意して居つてなか/\暇かないからそれは困つたか私は坂本と云ふ奴は幕府の爲にならず 朝廷の御爲にもならず唯事を好んて京都を騒かせる悪漢であるから是非斬つて仕舞はねはならぬと思ひましたか何れか坂本て何處に居るのか少も解らぬ幸に不圖したことから鞘藥師に居る才谷と云ふか坂本たと言ふことを確めたそこて十一月の十五日の晩今夜こそ是非と云ふことに決して桑名藩の渡邊吉太郎と云ふ者とそれから京都の興力ニ桂隼之助と云ふ者と外に一人それと自分と都合四人出掛けた私か一番年か行て居つたからして自分か一番の年上て廿六歳てあつた雑誌記者問に外に一人と云ふは誰てあるかと云ふと其者は未た生きて居るかとうそ私か生きて居る中は言ふて吳れるなと云ふて居るから言ふことか出來ない死んたと云ふ二人を擧けてあとの一人と云ふ者は言はない而して自分ハ今井信郎と云ふ者てあると公然自白して居る一寸聽くと如何にもまことらしく思はるゝ當時の事實より推して容易に信用かてきぬ此今井信郎の言ふに惜しいことは桂隼之助も渡邊吉太郎も鳥羽の戰爭て兩人とも討死をした斯ふ云ふたそれてとうそ其一人生きて居る人を聞かせぬかと云ふと其人は顯官に居るからして此人のことは今日言はぬ約束であるからどう云ふことがあつても言ふに忍ひぬと云ふことて決してそれを告けぬと云ふことか書いてあるそこて此條に至つて我々も最も信用の出來ないのは坂本石川を殺したは四人であると云ふけれとも是は甚た疑はし扨て今井氏の言によれは十一月十五日の夜先斗町で酒を呑て十時餘程過きに才谷の旅宿の河原町鞘藥師油屋へ參り私共は信州松代藩のこれ/\と云ふものてす坂本さんに火急に御目にかゝりたいと申しました處取次のものがはいと云つて立つて行きましたからこいつ締めた居るに違ひない居さへすれは何樣てもして斬つて仕舞うと思つて居ますと其中に取次か此方へと云ひますのて跡へついて二階へ來りましたすると松代てすかあの眞田の藩です坂本とは前から通して居つたのてす四人ともいゝ加減の名を拵へて言つたのてすから今ても覺へて居ません兎に角此方らへと云ひますから行つて見ますと二階は八疊と六疊の二間になつて居ました六疊の方には書生か三人居て八疊の方には坂本と中岡が机を中へ挾んて坐つて居りました中岡は當時改名して石川淸之助と云つて居りましたけれとも私は初めての事てありとれか坂本たか少も存しませす外の三人も勿論知りませんので早速機轉をきかしてやあ坂本さん暫くと云ひますと入口へ坐つて居た方の人かとなたてしたねへと答へたのですそこてそれと云ひさま手早く拔いて斬りっけました最初鬢を一つたゝいて置いて體をすくめる拍子に横に左の腹を斬つてそれから踏み込んて右から又一つ腹を斬りました此の二太刀て流石の坂本もうんと云つて仆れて仕舞ひましたから私はもういきついた事たと思ひましたか後て聞きますと明日の朝まて生きて居たさうてす(此處坐敷の圖を挾む)それから中岡の方てすこれは私共も中岡とは知らす坂本さへ知らなかつたのてすから無理はありません坂本をやつてから手早く腦天を三つほと續けて叩きましたらそのまゝ仆れて仕舞ひました御話しますれは長いのてすか此の間はほんとに電光石火て一曖間にやつて仕舞つたのてす然し室へ這入ります前に私のすく後へ渡邊かついて參りましたかそれか腰の鞘を立てゝ梯子を上りましたので六疊に居る書生か怪しいと見てそれと聲を掛けましたから少し手順か狂つたのてすそれて四人とも坂本の室へ這入り込む處てしたか書生か馨をかけたゝめ渡邊と桂は早速に拔いて六疊て書生と斬り合ひ其間に私共は八疊の方へやつゝけたのてす書生は渡邊と桂とに斬り立てられて窓から屋根傳ひに逃けて仕舞ひました其の夜は佐々木只三郎の處て泊りまして翌日市中の噂を聞くと仲々大變な騒きてす何ても皆是れは新選組の仕業たらう多分は紀州の三浦休太郎(安)か新選組と合體してやつたのたらうと云ふ風評てすそれに其の晩波邊か六疊へ鞘を置て返つて來ましたかその鞘か能く紀州の士の差した高鞘に似て居りましたから愈々是れは三浦の仕業に違ひないと云ふ事てした暫くたつと果して土佐の若い者か三浦の家を襲ひましたすると其の時丁度近藤(勇)か其處に居合せて一所になつて追ひ歸しましたので愈斬つたのは三浦と近藤たと云ふ風説か高くなりました決して四人てない何故私かそれを四人でないと云ふことを斷言するかと云ふと石川淸之助と云ふ者は十五日の夜に斬られて十六日の午後今の一時過きまて生きて居つて誠に確てあつたそれて其の賊の這入つて來た擧動から何から一切詳に話したそれとどうもまるで違ふ石川の言ふに賊は二人てあつた今の今井の言ふには四人てあると斯う云ふてある尤も鞘藥師あくら屋と云ふのは間違ひはない此あくら屋は近江屋新助と云ふて本年私か京都へ行つた場合に未た生きて居ると云ふことてあるからそれに會ふて話を段々聞いて見たけれとも何しろ彼奴等はとん/\上に上かつて來て坂本の僕か斬倒されて大きな馨て叫ふと云ふ譯て何もかもない周章て逃出したものてあるから後のことはさつはり分らない其の近江屋なる者は小僧一人居りましたとか何とか言ひましたけれとも決して家には居らさつたに相違ない所か此今の自稱殺害者と云ふものは書生三人居つたと言ふ二階の階子段を上に上う詰めてそしてすつと見詰めると向ふに書生か三人居つたと云ふことがちやんと書いてある所か其處に居つた者は坂本龍馬の僕か一人てあるそれから卽ち斬られて居つた者たけは斬られた然るに今の今井先生の全體其時の擧動と云ふものか如何にも面白いとうも丁度芝居の讐討ても見る樣な景況てとうしても事實とは考へられぬあとから作つたものと思はれる其時に四人の人かとう云ふ樣にして行つたかと云ふと十五日夜の十時過き時分に今の鞘藥師三條下ル所のアクラ屋へ參つたそして家來に對して言ふに私共は信州松代藩の某と云ふ者てある坂本さんに火急に御目に掛りたいと斯う云ふて行つたさうすると取次の者かはいと云つて立つて行つて上に上かつたこいつは占めた家に居るに違ひない居りさへすれは何でも斬つて仕舞ふそ斯う云ふ積りて構込んたそこて其内取次の者か此方へ御通りなされと言つて來たから二階へ行つたか寄附きに居る人か松代藩ですかあなたは眞田の藩ですか坂本とは前から通じて居つたのてすか斯う云ふ間を掛けたさうすると四人とも宜い加減な名を拵へて行つたものてあるから今ては其名は覺へて居らぬけれとも兎も角も此方へと言ふから直く二階へ上つて見ると八疊の座敷と六疊と二間に居つたそこて六疊の所にとう云ふ人か居つたかと云ふと上り口の六疊に書生か三人居つた八疊の方に坂本と中岡か机を中へ挾んて坐して居つた是も間違つて居る成る程京都ては能く机を置て話をし飯を食ふことをやつて居るかそんなものはなかつた行燈を前に置いてそして二人か話し居つたそこて三人の書生か居つたと云ふのは是かいかぬそれから其人の言ふに坂本は一向自分も會ふたこともないそれ故に少しも三人とも勿論石川も坂本も知らさつたか早速氣轉を利かしてはゝ坂本さん暫くと言ふてどつちか坂本か知らふか爲に馨を掛けたさうすると入口に坐して居つた人かとなたてすかと答へたのてそれてこいつか坂本ちやなと斯う思ふて矢庭に拔いて斬付けたそれから其横鬢を一つたゝいて置いて體を竦める所をなぐつた一つなぐつて體を竦める所を横に腹を斬つたそこて踏込んて右から又腹を斬つた此二太刀てからに確に坂本はうんと云つて倒れて仕舞つたそこて私はもう宜いと思ふて居りましたかあとて聞けは翌朝まて生きて居つたと云ふことてありました斯う云ふことか書いてある所か能く御考になつたらは分るか人を斬りに行くにさう云う問鈍いことて人か斬れるものてない又兩人とも隨分武邊場數の士て殊に坂本は剣術は無逸の達人で平生付けねらはれて居るのを承知のことなれは少しも油斷しないそれか顏と顏とを見合せて話をしてそれから斬られる樣な鈍い男てない是等か最も噓の甚しい事柄て決して斯う云ふ譯のものてないそこて此坂本の斬られたと云ふ報知のあつた場合に直くに駈付て行つた者か私と毛利恭助と云ふ者てある是は京都三條上る所の高瀨川より左に入る横町の大森と云ふ家かある毛利兩人は其大森の家に宿をして居つたそれて先つ速い中てあつた土佐の屋敷と坂本の宿とは僅に一丁計りしか隔て居らぬから直に知れる筈なれども宿屋の者等は二階てとさくさやるものたから驚て何處へ逃けたか知れぬ暫くして山內の屋敷へ言つて來たものも餘程後れ私か行つた時も最早疾うの後になつて居るそれて行つて見た所か丁度階子の上り付けた所に坂本は斬倒されて居る夫からして階子を上つて右ニ行き詰めた所か卽ち京都の方に窓かある御承知の通り京都ては町に向いた窓は大きな閂を置いて其へ泥を塗つてあるなか/\押しても突いても破れへきものてない其下に龍馬の僕か斬倒されて居るそこて右手の方の座敷には卽ち中岡か斬られて居るもう坂本は非常な大傷で額の所を横に五寸程やられて居るから此一刀て倒れねはならんのであるか後ろからやられて背中に袈裟に行つて居る坂本の傷ハさう云ふ次第てそれからして中岡の傷はとう云ふものかと云ふと後ろから頭へ掛けて後ろへ斬られそれから又左右の手を斬られて居るそして足を兩方ともになくられたものちやから兩方斬られて居る其内倒れたやつを又二太刀やつたものてあるから其後からやつた太刀と思ふのは殆と骨に達する程深く行つて居るけれども腦に遠いものてあるからしてなか/\元氣な石川てありますから氣分は至て慥てあるとうかと云ふと誠に遺憾千萬てあるか併し此通りてある速くやらなければ君方もやられるそ速くやらなけれはいかぬと云ふのか石川の論であつた
そこてまあ一體とう云ふ始末てあつたかと聞いて見ると實は今夜ハお前の方へ行ったかお前か留守てあつたから坂本の所へ來て二人か話して居る中に十津川の者てこさるとうそ御目ニ掛りたいと云ふて來たそこて取次の僕か(坂本の僕)手札を持つて上つて來る中岡は手前に居つて坂本は丁度床を後にして前に居つたそれて二人て行燈へ頭を出して其受取つた手札を見居る讀む暇はありませぬ見居る所へ僕か上つて來るに附いてすつと上かつて來たそして置いて矢庭にコナクソと云つて斬つたそれて手前に居つたのか中岡てある行つて見ると居つた位置も違ひ机なとを列ヘて居つたと云ふけれともそんな譯てなかつた矢庭に二人か手札を見やうとする所へ斬込んて來た中岡を先きにやつた其言葉は所謂コナクソと云ふ一聲そして斬られた其時はつと思ふた時に坂本は後ろの床に刀かあるから向いて刀を取らうとする樣たけは覺へて居る自分も直く短刀を取つたけれとも奈何せむそれを取つたなりて拔くことは出來ぬから振廻し向ふは後へ退り/\なくられたそこてもう手はきかぬ樣になつたから唯向ふに武者振り附かうとする兩足をなぐられて仕舞つたそれて足か立たぬ樣になつて仕方かないから其儘に倒れて斬らせて置くより仕樣かない其儘倒れて居つたさうするともう宜いもう宜いと云ふて出て行つた賊の言ふた言葉はコナクソと云ふ言葉ともう宜いと云ふ言葉より外聞きはしないそこて坂本はとうしたであらうかとうも分らない分らないか坂本も素より斬られた今の中岡か斬られて倒れて暫くして居る中に坂本か倒れて居たかすつと起上つて行燈を提けて階子段の傍まて行つたそして其處て倒れて石川刀はないか刀はないかと二聲三聲言ふてそれてもう音か無い樣になつた斬られて居つた所は八疊の間てあつたけれとも兎もあれ立上つた儘階子段の傍まで行燈を持つて行つて倒れたと云ふのか是か卽ち石川の話それて石川の言ふになか/\實にとうも銳いやり方て自分等も隨分從來油斷はせぬか何しろ非常な所謂武邊場數の奴に相違ない此くらい自分等二人居つて不覺を取ることはせぬ筈たかとうする間もないたつたコナクソと言ふ一聲てやられた斯う云ふ話てあつたそれからして今の傷から云ひましても此人の言ふ所に依ると先つ其横鬢を一つたゝいた是は何か話にても聞いたものてないか此額をやられたのは五ほんくらいやられたそれから是は稍々似て居るか横腹を斬つた又踏込んて兩腹を斬つたそれか深い傷と云ふのは横に眉の上をやられて居るそれから後ろから袈裟にやられた此二つか先つ致命傷そこて坂本はとう云ふことをしたかと云ふととうも分らぬけれとも是も想像が出來る自分は刀を確に取つたに相違ない刀を取つたかもう拔く間もないから鞘越して受けたそれて後ろから袈裟にやられて又重ねて斬つて來たから太刀折の所か六寸程鞘越しに切られて居る身は三寸程刄か削れて鉛を切つた樣に割れて居るそれは受けたか受流した樣な理窟になつてそして其時横になくられたのか額の傷であらうかと想像される傷の所から云ふても此人の言ふて居る所とは全く違ふそれから又疑ふへきことはお前ハ松代の人てあるかとか何とか云ふことはそんなことを應接するところの騷きてない僕の後に附いて來て矢庭にコナクソと云ふてやつた實に速にやつた
そこて私共か行つてからさて是は何者の所業であらうか誰にやられたかと云ふことに付ては未た今に心に掛けて詮議中てある石川の判斷ては之はとうしても人を散々斬つて居る新選組の者たらうそれてコナクソと云ふ言葉に付て判斷した石川の云ふにとうも四國人であろふコナクソと云ふことは四國人か能う言ふか土佐の者てはなからう土佐の者は其の時分石川を斬る者ハ無い皆殆と有志は一致合體して居る時てあつたそこて一つの證擦か殘つて居るのは刀の鞘がある刀の鞘と云ふものを一つの證據にそれから吟味してコナクソと云ふ言葉ともう宜いと云ふ言葉の外に賊の殘して行つたものは刀の鞘たけてあるそれて石川は誠に遺憾千萬てある甚た不覺を取つた片時もやらなけれは皆有志の徒はやられるから速く事を擧けいといふことを頻に言ふたそこて石川は今申す通り十六日の午後一時か二時頃昔て云ふと八ツ時と云ふくらゐにとう/\死んたか其の死なぬ前に傍に居たのは卽ち今の宮內大臣田中光顯是も土佐の白川屋敷に圍つてあつた浪人組て卽ち自分の大將かさう云ふ災難に遭ふたものであるから田中か取敢すやつて來たそれから田中か石川を慰めて是は貴樣の傷は餘程淺い井上を見よ聞多はあの通り酷い傷たか癒つた貴樣は充分に癒ると云ふて力を附けた併なから後から斬つたのか腦へ幾分か掛つたものと見えて次第に嘔氣を摧し吐出してとう/\翌日の八ツ前くらゐに斃れたけれとも死ぬ前に懇々として話したそれは速くやらぬと此樣にやらぬと實に遺憾であると云ふて斃れて仕舞つた
其のあとてさあ此下手人を調へることになつた先つ新選組と鑑定を附けたものてありますから此方の手掛りを探さなけれはならぬといふもので石川か斬られたのか十五日それからして新選組に元居つて意見か分れて高臺寺といふ寺へ行つて居つた者か十四五人あつた伊東甲子太郎といふのか頭て其の甲子太郎か十八日の夜新選組の者に殺された甲子太郎を殺して置いてサア伊東か災難に遭ふたから片時も參つと云ふてやつたのて居合した者か七人程皆行つたか新選組は待伏して皆殺された七條少し脇の方て其斬殘されたのか其中に伏見の方へ出て行て家に居らさつたのか二三人あつた其斬殘されのは初め白川の土佐屋敷へ來た白川の土佐屋敷はあの時分は野原てあつて浪人か大變居るか危險てあるからもう不用心故薩摩の屋敷の方へ賴んた所かこゝも危いと云ふのて伏見の薩摩屋敷へ圍つて居つたそこて彼の斬殘されの者等は元々新選組に這入つて居つたものてあるからして刀に見覺えかあらうと云ふのて私と毛利とそれから彼の薩摩の中村半次郎と三人て伏見の薩摩屋敷へ行つて彼の甲子太郎の一類の者に會ふて其の刀の鞘を見せた所か此の二三人か評議して見て是は原田佐之助の刀と思ふと……言出した成程……此原田左之助といふのは腕前の男た新選組の中て先つ實行委員と云ふ理窟て人を斬りに行くには何時にても先に立つて行くそこて私なとかハア成程とうも其擧動と云ひ如何にも武邊場數の者てあらう何しろ敏捷なやり方てあるとうしてもそれに相違ないと云ふのて最早一人は原田左之助其他斬つた者ハ新選組の者に相違ないと云ふことにまあ決定して居る所て豈圖らんや此三十三年五月の近畿評論と云ふ雜誌を見ると坂本石川兩人を殺害した者は拙者なりと明白に言つて居るそこで其擧動はとうかと云ふて見ると如何にもおかしい恰も芝居の讐討てもやりさうな間鈍るいやり方て尤も其中に斯く云へは長い樣てありますけれとも實は電光石火てあつたと斷りはしてあるけれとも第一に書生はとうしたかと云ふと窓から出て逃けたと云ふけれとも逃出やうと云ふ所は實は大きな柱があつて泥を塗つてあるから押しても突いても動くものでない逃けやうとしても逃けることは出來ない唯二階へ上かる行詰の所に明り取りかあるかそれは高うて唯明りを取る爲めのものて決して逃出るもとうすることも出來ない若し逃出るならは石川坂本の斬られる其處へ行かなけれはならぬ共處ハ低い敷居かあつて其下に坂本か机を置いて書見して居る其處ハ出らるゝか其處ハ兩人か居つてトサハサ/\やり居るから逃けやうとしても逃けることは出來ない所か此先生は書生か三人居つたか二人は逃けて一人は斬止めた斯うあるとうも途方もない間違つて居るそれてまあ全體そう云ふやうな有樣で此時のことは矢張り私等の國の者等の考も元紀州の光明丸といろは丸と衝突の時に坂本等か非常な激烈な談判をして償金を取つたから其恨みに紀州人か新選組を遣してやつたのてあらうそこて紀州の巨魁は今の三浦安――三浦久太郎に相違ないあれか卽ち新選組を煽動して斬らせたのてあらうといふから誠に詰らぬ壯士等か三浦安の所へ斬込んた所向ふがトツコイさうはいかぬと云ふので新選組に言ふてやつて準備をして居つたから此方から行つたのかやられたそれて斬つたと云ふ今井は松代藩の者てあると言ふて行つたと云ふか松代藩の者たなといふてもウツカリ會ひはせぬ皆用心して居る殊に坂本は才谷梅太郎と云つて名を變へて居つて殊に新選組から狙らはるゝのて薩摩の方からも危いに依てとうそ私の方へ參るやうにと云ふたか屋敷の中へ這入ると出入りに窮屈たから這入らうと云はないそれ故平生警戒を加へて居るから松代藩なと云ふて來ても會ひはせぬのてありますか十津川の者は始終出入して居りました勤王論者か十津川に多かつたそれて十津川と云ふて來たから取次も安心したそこて十津川と云ふことをかたられたといふのて十津川人か大變怒つて卽ち三浦久太郎を斬に行つた場合にも十津川人か出掛けて行つた十津川人の中井承五郎と云ふは大分人を斬つた樣子ちやかそれから行つたかとうとう斬られて仕舞つた
それから龍馬に話に來た書生は遺憾ちやと云ふのて三浦の所へ斬りに行つたか構へて居つて散々失敗を取つたさう云ふことで此人は松代藩ちやと云つて行つたと云ふか決してそうてない十津川と云ふて行つたは餘程巧なるやり方てある取次の僕も十津川人と云から取次をしたさう云ふ次第て其鞘は原田左之助か差して居つた刀の鞘てある
斯う云ふことに私共に一齋に極めて居る所か此人の云ふに鞘を落して來たと云ふ是もあとて聞いたらうと思ふ其鞘は紀州の人の刀の裝へてある紀州人の鞘てあるといふのてサア三浦ちやと云ふて三浦の所へ復讐に行つて返討ちにあつたさうてない紀州人は紀州てあるか紀州人か新選組を唆かして新選組の者か斬りに來た鞘は全く原田左之助の鞘と斯う云ふことになつて居るそれて隨分妙な物好てあるけれとも推測して見ると徳川の旗下て譜代恩顧の者てあるから兩英雄を倒したと云ふと事實となつて後世に傳へらるゝことゝなつて成る程斯うてあつたか知らぬととうしても事實と認めらるゝに相違ない
それて御話を申上ける通り片岡かとうそ調へて吳れいといふことてあつたから請負ふて置いた是も故人になり又私か死んて仕舞へは遂に事實を明にすることか出來ない段々古いことを御知りの方もこさいませうし又歷史を御取調へになる方も段々こさいますからとうそ充分御研究を願いたいと思ふ果して今井と云ふ人か手を下して斬つたものとすれは此書いたものに言ふたことは間違つて居るに相違ない何れにしても今井か斬つたといふ事は此證據の上ては認められぬと思ふとうそ尙ほ御記臆の上て御硏究を願ひたいと思ふ隨分誰かやつた彼かやつたと云ふことには大變間違かある且つ又何そあの時分の書いたものても押へぬと隨分あの時分は斬自慢をする世の中てあつたから誰かやつた彼かやつたと云ふことは實に當てにならぬと思ふとうそ御參考に供しますか尙ほ御取調を願いたいと思ひます(谷干城遺稿編者曰明治三十三年頃歟)