주자어류/권131 본조5 本朝五
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朱子語類卷第一百三十一
- 本朝五
- ∞∞∞∞中興至今日人物上<李趙張汪黃秦.>
- 131:1 李伯紀, 徽廟時, 因論京城水災被出. 後復召用, 遂約吳敏勸行內禪事. 李恐吳做不得, 乃自作文, 於袖中入, 吳已爲之矣. 後欽宗卽位, 用之. 一日, 聞金人來, 殿上臣寮都失措, 皆欲作竄計. 李叩閤門入論, 閤門止之. 欽宗聞之, 令引見. 力陳禦戎之策, 忠義慨然. 上大喜, 卽擢知樞密院事. 李英爽奮發, 然性疏, 用術. 欽廟用督太原師, 適种師中敗, 遂得罪. 太上登極, 建炎初召. 汪黃輩云: “李好用兵, 今召用, 恐金人不樂.” 上曰: “朕立於此, 想彼亦不樂矣!” 遂用爲相. 後汪黃竟使言官去之, 在相位止百餘日. 許右丞作陳少陽哀詞, 亦各見其出處. 揚(54-6때).
- 131:2 李丞相不甚知人; 所用多輕浮. 相於南京時, 建議三事, <借民間錢. 二云云. 三云云.> 宋齊愈言之. 其時正誅叛人, 遂以宋嘗令立張邦昌, 戮之. 當時人多知是立張邦昌. 間有未知者, 宋書以示之. 及刑, 人多冤之. 張魏公深言宋甚好人. 宋, 蜀人. 當時模樣, 亦是汪黃所使人. 魏公亦汪黃薦. 李罷相, 乃魏公言罷也. 揚(54-6때).
- 131:3 黃仲本言於先生曰: “李伯紀一再召, 乃黃潛善薦也. 途中見顔岐言章, 遂疑潛善爲之. 李入國門, 潛善率百官迓之, 李黙不一語, 因此二公生隙.” 又曰: “上云: ‘李綱孩視朕!’” 先生曰: “李丞相有大名, 當時誰不追咎其不用, 以至於此? 上意亦須向之. 潛善因而推之, 背後卻令顔岐言之, 情理必是如此. 仲本是其族人, 不欲辯之.” 揚(54-6때).
- 131:4 問: “魏公何故亦嘗論列李丞相?” 曰: “魏公初赴南京, 亦主汪黃, 後以其人之不足主也, 意思都轉. 後居福州李公家, 於彼相得甚懽. 是時李公亦嘗薦魏公, 曾惹言語.” 又問: “魏公論李丞相章疏中, 有‘修怨專殺’等語, 似指誅宋齊愈而言, 何故?” 曰: “宋齊愈舊曾論李公來, 但他那罪過亦非小小刑杖斷遣得了.” 又曰: “當時議論, 自是一般好笑. 方召李丞相時, 顔岐之徒論列, 謂張邦昌虜人所厚, 不宜疏遠; 李綱虜人所惡, 不宜再用. 幸而高宗語極好, 云: ‘如朕之立, 恐亦非虜人所樂! ’遂得命召不寢.” 曰: “方南京建國時, 全無紀綱. 自李公入來整頓一番, 方略成箇朝廷模樣. 如僭竊及嘗受僞命之臣, 方行誅竄; 死節之臣, 方行旌卹. 然李公亦以此去位矣.” 又曰: “便是天下事難得恰好. 是時恰限撞著汪黃用事, 二人事事無能, 卻會專殺. 如置馬伸於死地, 陳東歐陽徹之死, 皆二人爲之.” <傳中興詔令, 御史臺勸箚. 宋齊愈外至會議處, 於卓子上取筆寫“張邦昌”三字, 坐皆失色!> 儒用(70때).
- 131:5 陳少陽之死, 黃潛善害之也, 其詳見於許右丞哀詞中. 同時死者歐陽徹. 徹, 楚州人. 某族叔祖時居高郵, 一日, 使一人往楚州鹽城小村中買物事, 久而不歸, 後問之, 乃云, 彼村中三四日大雪. 叔祖甚怪之, 云: “八月二十間, 安得有雪!” 亦且據其僕云記之. 後有人自彼中來, 問之, 果然, 乃歐陽死時也. 揚(54-6때).
- 131:6 舜擧十六相, 誅“四凶”, 如此方恰好, 兩邊方停勻. 後世都不然, 惟小人得志耳. 方天下無事之時, 則端人正士行義謹飭之士爲小人排擯, 不能一日安於朝廷, 遷竄貶謫. 及擾攘多故之秋, 所謂忠臣義士者, 犯水火, 蹈白刃, 以捐其軀; 而小人者, 平世固是他享富貴, 及亂世亦是他獨寬, 縱橫顚倒, 無非是他得志之日. 君子者常不幸, 而小人者常幸也! 如汪黃在高宗初年爲宰相, 後來竄廣中, 正中原多故之日, 卻是好好送他去廣中避盜. 及事稍定, 依舊取他出來爲官. 高宗初啓中興, 而此等人爲宰相, 如何有恢復之望! 在維揚時, 番人兵矢簇在胸前了, 他猶自不管, 世間有此愚人! 子蒙(미상).
- 131:7 問中興諸相. 曰: “張魏公才極短, 雖大義極分明, 而全不曉事. 扶得東邊, 倒了西邊; 知得這裏, 忘了那裏. 趙忠簡卻曉事, 有才, 好賢樂善, 處置得好, 而大義不甚分明. 李丞相大義分明, 極有才, 做事有終始, 本末昭然可曉. 只是中間粗, 不甚謹密, 此是他病. 然他綱領大, 規模宏闊, 照管得始終本末, 才極大, 諸公皆不及, 只可惜太粗耳. 朱丞相秀水閑居錄自誇其功太過, 以復辟之事皆由他做, 不公道.” 魏公有鎭江錄. 又問呂頤浩. 曰: “這人粗, 胡亂一時間得他用, 不足道.” 子蒙(미상).
- 131:8 魏公才短. 然中興以來, 要爲者只李張二公. 揚(54-6때).
- 131:9 李伯紀大節好, 敗兵事, 乃當時爲其所治者附會滋益之, 不足盡信. 揚(54-6때).
- 131:10 李伯紀請誅張邦昌幷畔者, 後以結余睹事過海. 振(미상).
- 131:11 李伯紀丞相爲宣撫使時, 幕下賓客盡一時之秀. 胡德輝何晉之翁士特諸人, 皆有文名, 德輝尤蒙特顧. 諸將每有稟議, 正紛拏辨說之際, 諸公必厲聲曰: “且聽大丞相處分!” 諸將遂無語. 看來文士也是誤人, 蓋眞箇能者未必能言. 文士雖未必能, 卻又口中說得, 筆下寫得, 眞足以動人聞聽, 多至敗事者, 此也. 儒用(70때).
- 131:12 因語李忠定, 曰: “君子能勤小物, 故無大患.” 閎祖(59이후).
- 131:13 問: “中興賢相, 皆推趙忠簡公, 何如?” 曰: “看他做來做去, 亦只是王茂洪規摹. 當時廟論大槪亦主和議. <按, 王庶乞免簽書和議文字箚貼黃云: “契勘臣前項所上章奏, 及與王論議, 實有妨嫌. 今若不自陳稟, 則又如趙鼎劉大中輩首鼠兩端, 於陛下國事何益!”> 使當國久, 未必不出於和. 但就和上, 卻須有些計較. 如歲幣·稱呼·疆土之類, 不至一一聽命如秦會之樣, 草草地和了. 後來秦沒意智, 乃以‘不合沮撓和議’爲詞, 貶之, 卻十分送箇好題目與他.” 問: “趙好處如何?” 曰: “意思好, 又孜孜汲引善類, 但其行事亦有不强人意處. 如自平江再都建康, 張德遠極費調護, 已自定疊了. 只因酈瓊叛去, 德遠罷相, 趙公再入, 憂虞過計, 遂決還都臨安之策. 一夜起發, 自是不復都金陵矣.” 問: “酈瓊之叛, 或云因呂安老折辱之, 不能安, 遂生反心. 如不親坐廳, 但垂簾露履以受其參之類, 恐無此等事.” 曰: “此亦傳聞之過.” 又問: “當時皆歸罪魏公, 以爲不合罷劉光世, 故有此變.” 曰: “光世在當時貪財好色, 無與爲比, 軍政極是弛壞, 罷之未爲不是, 但分付得他兵馬無著落.” 又云: “此事似不偶然. 如虜人寇虐, 劉豫不臣, 但無人敢問著他. 至此屯重兵淮上, 方謀大擧, 以伐劉豫, 忽然有此一段疏脫, 遂止.” 又云: “如呂安老才氣儘自過人, 觀其議論, 亦甚精確.” 問: “酈瓊叛去之後, 聞亦不得志於虜.” 曰: “虜後來亦用他爲將, 但初叛歸於劉豫. 虜人卻疑豫擁兵太衆, 或疑與我爲內應, 遂有廢豫之謀.” <酈瓊叛於淮西, 實紹興七年秋戊辰也. 瓊旣降劉豫, 金人憂其難制, 遂廢僞齊, 其詔有云: “勿謂奪蹊田之牛, 其罰則甚; 不能爲托子之友, 非棄亦何? 此天滅齊豫也, 豈偶然哉!”> 儒用(70때).
- 131:14 問: “趙忠簡張魏公當國, 魏公欲戰, 忠簡欲不戰. 忠簡以爲劉豫杌上肉耳. 然豫挾虜人以爲重, 今且得豫遮蔽虜人, 我之被禍猶小. 若取劉豫, 則我獨當虜人, 難矣. 魏公不然之, 必欲戰. 二策孰是?” 曰: “忠簡非是. 殺得劉豫了, 又卻抵當虜人, 有何不可? 劉豫亦未便是杌上肉在. 若以趙之才, 恐也當未得那杌上肉, 他亦未會被你殺得, 只是胡說. 若眞箇殺得劉豫, 則我之勢益强, 虜人自畏矣, 何難當之! 有虜, 豺狼犬羊也, 見威則畏, 見善則愈肆欺侮. 若自家眞箇曾勝劉豫, 殺得一兩番贏, 他便怕矣. 靖康以後, 自家只管怕他, 與之和, 所以他愈肆欺侮. 若自家眞箇能勝劉豫, 他安得不懼? 虜, 禽獸耳, 豈可以柔服也! 嘗見征蒙記李成之子某從兀朮征蒙國, 因記征蒙時事. 云, 兀朮在甚處, 淮上二士人說之曰: ‘今韓世忠渡江, 遺棄糧草甚多. 若我急往收取, 資之以取江南, 必可得也.’ 兀朮然其言, 遂急來淮上, 則空無所有. 蓋韓已先般輜重糧草歸, 而後抽軍回也. 彷徨淮上, 正未有策, 而糧草已竭, 窘不可言. 先已敗於劉錡, 錡在順昌扼其前, 進退不可, 遂遣使請和. 兀朮謂其下曰: ‘今南朝幸而欲和, 卽大幸; 不然, 卽送死耳, 無策可爲也.’ 這下又不知其狼狽如是. 若知之, 以偏師臨之, 無遺類矣. 是時雖稍勝, 然高宗終畏之, 欲和. 因其使來, 喜甚, 遂遣使報之, 欲和. 兀朮大喜, 遂得還. 是兀朮不敢望和, 自以爲必死. 其遣使也, 蓋亦謾試此間耳. 可惜此機會, 所以後來也怕, 一向欲和.” 又云: “劉信叔是時以孤軍在順昌, 兀朮來伐, 諸將皆欲走, 信叔曰: ‘不可. 我若走, 則虜人必前拒我, 襲在後, 必無遺類. 若幸而得至江, 則諸將盡扼江上, 責我以擅棄歸之罪, 亦必盡殺我, 決無可生之理. 不若堅守此城, 與虜人決勝負, 庶幾死中可以求生也.’ 某嘗說, 冢殺無巧妙, 只是死中求生. 兩軍相拄, 一邊立得脚住不退, 卽贏矣. 須是死中求生, 方勝也. 遂據城與虜人戰, 大敗虜人, 兀朮由是畏怯. 若非錡順昌一勝, 兀朮亦未必便致狼狽如此之甚. 信叔本將家子, 喜讀書, 能詩, 詩極佳, 善寫字. 後來當完顔亮時, 己自老病. 緣其侄劉玘先戰敗, 遂至於敗.” 卓(미상). <饒錄云: “張魏公欲討劉豫, 趙丞相云: ‘留他在上, 可以扞蔽北虜. 若除了, 便與北虜爲鄰, 恐難抵當.’ 此是甚說話! 豈有不能討叛臣而可以服夷狄乎?”>
- 131:15 趙丞相亦自主和議, 但爭河北數州, 及不肯屈膝數項禮數爾. 至秦丞相, 便都不與爭. 趙丞相是西人, 人皆望其有所成就, 不知他倒都不進前! <方子錄云: “趙元鎭亦只欲和. 但秦檜旣擔當了, 元鎭卻落得美名”.>
- 131:16 張魏公本與趙忠簡同心輔政. 陳公輔排程氏, 乃因趙公. 趙公去. 已而呂安老敗, 趙公復相. 可學(62때).
- 131:17 趙丞相, 中興名臣一人而已, 然當時不滿人意處亦多. 且如好伊洛之學, 又不大段理會得, 故皆爲人以是欺之. 一日, 出見一屋稍好, 栽些花木之類. 問知是一內官家, 及言於上, 謂: “今暫駐蹕於此, 當日圖恢復, 而內臣乃居安如此!” 遂編管之. 揚(54-6때).
- 131:18 趙丞相收拾得些人材然亦雜, 如喩子才之徒亦預焉也. 揚(54-6때).
- 131:19 先生云: “沈公雅言: ‘趙丞相鎭靜, 德量之懿; 而諳練事機, 則恐於秦公不逮.’ 張子功以爲不然, 且曰: ‘燾在都司日, 忠簡爲相, 有建議者, 公必計也, 曰: “如是則利在上而害在民, 如是則害在上利在民. 今須如此行, 則利澤均而公私便.” 至秦公, 則僚屬凡有關白, 黙無一語, 而屬諸吏. 事出, 則皆吏輩所爲, 而非復前日之所擬.’” 道夫(60이후). <僩錄云: “嘗見沈公雅云: ‘某嘗問張子功, 趙忠簡與秦丞相二公孰能辦事? 某以秦公爲能.’ 子功曰: ‘不然. 某嘗爲都司, 事二公. 每百官有稟白事件, 趙公必當面剖析商量, 此事合如何行. 如此行則利國, 如此行則利民, 如此則利民而害國, 如此則利國而害民, 如此則國與民俱利. 當面便商量判斷了, 僚屬便奉承以行. 及至秦公, 則百官凡有所稟白, 無酬酢, 略不可否, 但付與吏人, 少間更沒理會, 此事便沉埋了. 如此, 謂之秦公勝趙公, 可乎?’”>
- 131:20 “魏公初以何右丞薦爲太常簿. 趙忠簡爲開封推官, 相得甚懽. 在圍城中, 朝夕論講濟時之策. 魏公先達, 力相汲引, 遂除司勳員外郎, 一向超擢, 反在魏公上. 嘗論天下人材, 魏公劇談秦會之可用. 趙云: ‘此人得志, 吾輩安所措足邪! ’魏公云: ‘且爲國事計, 姑置吾人利害.’ 時趙公爲左, 張公爲右, 皆兼樞密院事. 忽報兀朮大擧深入, 朝廷震怖. 時劉光世將重兵屯合肥, 魏公親往視師, 因奏記曰: ‘此決非兀朮, 必劉豫遣其子姪麟·猊來寇耳. 臣往在關西, 數與兀朮戰, 熟其用兵利害. 今觀此擧, 決非其人.’ 魏公遂下令督戰. 光世恐懼, 謀欲退師而南, 以與趙公平時有鄕曲雅, 故遂私有請於趙. 折彦質時知樞密院事, 復助之請, 遂徑自樞府下文字, 令光世退師. 魏公聞之, 大怒, 下令曰: ‘敢有一人渡江, 卽斬以徇! ’光世聞之, 復駐軍如故. 此事雖謂之曲在趙公, 可也. 已而拓皐大捷, 虜騎遂退. 魏公旣還, 絶不言前功, 欲以安趙公, 與共國事也. 而二公門下士互相排抵, 魏公之人至有作爲詩賦以嘲趙公者. 趙公之跡不安, 且有論之者, 遂去. 魏公獨相, 乃力薦會之爲樞密使. 及酈瓊叛於合肥. 呂安老死之, 魏公之跡亦不安, 懇辭求去. 高宗問: ‘誰可代卿者?’ 魏公復薦趙公, 遂令魏公擬批召之. 旣出, 會之謂必薦己, 就閤子語良久. 魏公言不及之, 會之色漸變. 未幾, 中使傳宣促進所擬文字, 魏公遂就坐作箚子, 封付中使, 會之色變愈甚. 魏公遂上馬去. 及趙公再相, 會之反謂之曰: “張德遠直恁無廉恥, 弄壞得淮上事如此, 猶不知去! 及主上傳宣來召相公, 方皇恐上馬去.’ 趙公以爲然. 後又數數讒間之, 趙公不能不信也. 又如光世之罷, 實當於罪. 酈瓊叛去, 豈不可擧能者? 乃復以淮西之軍付光世, 弄得都成私意. 初, 趙公極惡秦之爲人, 不與通情. 及趙公爲相, 秦爲樞密使, 每事惟公之命是聽. 久而趙公安之, 復深信之, 又薦之, 至與之並相. 並相之後, 復不敢專, 唯諾而已. 忽一日高宗怒唐暉, 趙公爲之分解. 檜察上意惡暉, 逡巡發一語云: ‘如唐暉樣人才, 也不難得.’ 又一日, 趙公奏, 恩平郡王乃建王之弟, 建王乃恩平之兄. 建州不過一郡之地, 吳乃一大都會, 恐弟之封不宜壓兄. 檜察見高宗以慈壽意主於恩平, 遂奏曰: ‘也不較此.’ 因此二事, 高宗深眷之. 又因力主和議, 趙公罷, 遂拜左相. 他言語不多, 只用兩句, 那事都了. 趙公不知魏公之無他, 爲檜所排, 得泉州; 是時魏公知福州. 二公相見, 因說及曩日之事, 趙公方知爲檜所中, 相與太息而已.” 或曰. “以檜之才, 若用之以正, 豈不能任恢復之責?” 曰: “他亦只是閉著門, 在屋子裏做得, 不知出門去又如何, 這事難.” 坐間多稱其能處置大事. 曰: “他急時, 也荒忙無計策. 他初一番講和, 虜人以河南之地歸, 未幾敗盟, 大擧入寇. 邊報旣至, 大恐, 不知所爲, 顧盼朝士, 問以計策, 時張巨山微誦曰: ‘德無常師, 主善爲師; 善無常主, 協於克一.’ 檜心異之. 衆人旣退, 獨留巨山坐, 問適間之語. 巨山曰: ‘天下之事, 各隨時節, 不可拘泥. 曩者相公與虜人講和者, 時當講和也. 今虜人旣敗盟, 則曲在彼, 我不得不應, 亦時當如此耳.’ 因爲之畫策, 召諸將爲戰攻之計. 他大喜, 卽命巨山爲奏藁, 倉卒不子細, 起頭兩句云: ‘伊尹告成湯曰: “德無常師, 主善爲師; ”孔子曰: “陳力就列, 不能者止.” ’遂急書進呈. 會之復喜, 遂播告天下, 決策用兵. 已而劉信叔順昌大捷, 虜人遂退, 檜復專其功, 大喜, 亟擢用巨山至中書舍人, 有無名子作詩嘲之, 一聯云: ‘成湯爲太甲, 宣聖作周任!’” <周莊仲云: “劉參政, 大中之子, 知某州, 劉季章曾爲其館客, 嘗與先生說, 見其翁日錄, 覺得高宗之意, 極不樂魏公. 先生曰: ‘然.’ 劉曰: ‘有御史者, 川人, 名戒, 字定夫. 魏公在川陝時, 上書言利害. 魏公喜, 檄用之, 倔强不從. 魏公遂疏遠之, 戒由是不樂. 後酈瓊之叛, 魏公去位. 張爲御史, 首論魏公. 高宗喜, 謂輔臣曰: “張戒論浚曰: ‘不臣之跡已見, 跋扈之跡未明.’ 此兩句極當其罪”. 謂其已罷宣撫使除樞密, 而猶用宣撫使印除吏不已也. 是時趙公奏曰: “此恐是一時不審之過, 亦未至於不臣也.” 秦檜徐進曰: “旣爲臣子, 恐亦不宜如此”. 檜之乘機伺人主喜怒擠陷人, 皆此類也.’” 儒用按: 是時周秘石公揆李誼交章詆公, 不特一張戒而已. 儒用(70때). 德明錄二條, 今附正之: “問劉寶學當初從魏公始末. 先生云: ‘當時趙公且要持重, 魏公卻要大擧. 有劉麟者, 擧兵掠邊. 朝廷不探虛實, 以爲虜復大入, 趙公震恐. 張公出, 視師江上, 趙公手書云: “今日之事, 且須持重, 未可輕戰. 萬一失事, 雖公不爲一身慮, 如宗廟社稷何? 是時劉麟兵以爲折彦古敗於淮上, 遁去. 於是張公鼓舞, 益爲大擧計, 謂趙公怯敵. 言者繼亦有論列, 趙遂罷相. 初, 趙公遣熊叔雅相視川陝事宜, 魏公亦遣寶學往. 寶學見川中無兵無財, 歸告魏公: “向者兵財如許, 尙不能集事, 今實未可動.” 魏公疑寶學附會趙公, 時又欲令寶學帥淮西, 代領酈瓊兵. 寶學以爲此軍不可代, 遂改. 呂安老願往, 寶學爲陳利害. 宜辭此行. 安老以告, 魏公怒, 於此出寶學知泉州. 旣而淮西果失師, 酈瓊全軍遁虜, 於是魏公罷相, 帥福州. 先是, 秦相與呂相同在政府. 呂相視師淮上, 秦相盡改其規模. 一時爲呂相所引用人多逐去, 盡起在外諸賢, 如胡文定·張子公·程伯禹諸人, 布在朝列, 實欲傾呂相也. 後呂相召還, 過某州, 席大光邀留, 告所以傾秦之術, 以爲莫若先去黨魁. 黨魁, 指文定也. 秦竟爲呂相所傾, 出知紹興府. 是時富直柔者, 富公之子, 嘗於一寺中與秦相握臂疑語, 且及富公爲相時事. 忽若有所思, 徑入, 去踰時不出. 富怪之, 須臾出云: “元來宰相要如此做!” 一時會稽政事, 便放下不問, 雖公筵亦只令去通判處理會. 趙公素鄙秦之爲人, 魏公卻薦秦相, 遂再召除樞密使. 旣視事, 一切不問, 魏公出知福州, 朝辭. 上問: “孰可以代卿者?” 魏公薦趙相. 上云: “可一面批旨奏來”. 魏公還堂, 秦相迎之, 以爲必薦己也. 坐久無語, 秦色變. 少頃, 中使傳宣云: “有旨, 令作召趙相公文字來”. 於是魏公指揮堂吏作文字奏上, 秦大不樂. 魏公去國, 趙相至, 秦譖魏公於趙公曰: “德遠到堂中, 尙未肯去. 直到中使催促召相公文字, 方上馬. 趙公於是益不樂魏公. 及趙公爲秦所傾, 出知泉州, 過福州, 與魏公相見, 語及當時薦代之事, 二公始豁然無疑.’ 先生曰: ‘秦相自爲樞密使, 不理會事. 及與趙公並相, 一切聽其所爲, 皆富直柔敎之也. 直柔不才子, 富公相業, 安有此哉! 其後上頗厭趙公, 爲秦所窺, 只兩言傾去. 是時有唐暉者, 作舍人, 求去. 上云: “唐暉只管求去.” 趙公力薦, 乞且留此人. 秦奏云: “似這般人才, 亦不難得.” 上欲封普安郡王爲建王, 恩平爲吳王. 趙公以爲建一郡耳, 吳古大國, 事體不稱. 秦奏云: “此亦只是虛名, 有何不可?” 趙公愕然, 於是遂求去.’” 又一條云: “秦相初罷政, 張當軸. 是時虜入淮上, 魏公出視師, 遂起秦相知臨安. 故事, 前宰相召還, 例賜茶藥繖蓋之屬. 趙公並不檢擧. 秦相使人禱魏公, 公盡與合得禮數. 魏公淮上方向進, 趙公憂不便, 奏乞退師保建康以南. 旣而虜兵卻, 言者攻趙相, 謂進師非趙鼎意, 坐是罷出. 魏公獨相, 遂挽秦爲樞密使. 秦一切唯唯, 從公所爲. 久之, 始與公爭事. 及呂安老廬州失師, 魏公乞出, 上不能留. 因問: ‘卿去, 孰可代者?’ 公遂薦趙相. 上云: ‘卿可具文字來.’ 旣退至都堂, 秦迎之, 有喜色, 意其必薦己也. 公坐久無語, 秦色變. 公乃指揮堂吏作召趙相文字. 及趙公來, 秦相譖魏公曰: ‘上意如此, 德遠猶且徬徨. 及中使宣索召相公文字, 方上馬去.’ 及言魏公所以短趙公者, 由是二公爲深仇. 故趙相居位, 不復牽挽魏公. 其後因一僧與魏公生日, 秦相治之甚峻, 幾逮及公. 又治趙相之子, 獄未成. 夜忽有一燈墜獄中, 其上書一‘反’字, 明日獄具, 罪當斬. 秦檜不悅, 欲加‘族誅’文字, 未上, 檜死. 先生云: ‘若族趙相家, 當時連逮數十人. 做到這裏, 自休不得, 其勢須如曹操去.’”>
- 131:21 僩因問: “當初高宗若必不肯和, 乘國勢稍振, 必成功.” 曰: “也未知如何, 蓋將驕惰不堪用.” 僩問: “如張韓劉岳之徒, 富貴已極, 如何責他死了, 宜其不可用. 若論數將之才, 則岳飛爲勝. 然飛亦橫, 只是他猶欲向前冢殺.” 先生曰: “便是如此. 有才者又有些毛病, 然亦上面人不能駕馭他. 若撞著周世宗趙太祖, 那裏怕! 他駕馭起皆是名將. 緣上之擧措無以服其心, 所謂‘得罪於巨室’者也.” 是夜因論“爲政不得罪於巨室”, 語及此. 又問: “劉光世本無能, 然卻軍心向他, 其裨將亦多可用者.” 曰: “他本將家子云云.” “張魏公撫師淮上, 督劉光世進軍. 是時虜人正大擧入寇, 光世恐懼, 遂背後懇趙忠簡. 是時趙爲相, 折彦質爲樞密. 折助之請樞密院, 遂命劉光世退軍. 魏公聞之, 大怒, 遂趕回劉光世. 出榜約束云: ‘如一人一馬渡江者, 皆斬! ’光世遂不敢渡江, 便回淮上. 樞府一面令退軍, 而宣府令進軍淮上, 然終退怯. 魏公旣還朝, 遂力言光世巽懦不堪用, 罷之, 而命呂安老董其軍. 及安老爲瓊等所殺, 降劉豫, 魏公由是得罪, 而趙忠簡復相. 趙旣相, 遂復擧劉光世爲將, 都弄成私意. 魏公已自罷得劉光世好了, 雖呂安老敗事, 然復擧能者而任之, 亦足矣, 何必須光世哉? 此皆趙之私意. 以某觀, 必竟魏公去得光世是, 而趙所爲非. 豈有虜人方入, 你卻欲掉了去? 一邊令進軍, 一邊令退軍, 如何作事?” 云云. 又言: “諸將驕橫, 張與韓較與高宗密, 故二人得全. 岳飛較疏, 高宗又忌之, 遂爲秦所誅, 而韓世忠破膽矣! 只有韓世忠在大儀鎭算殺得虜人一陣好. 高宗初遣魏良臣往虜中講和, 令韓世忠退師渡江. 韓聞魏將至, 知其欲講和也, 遂留之, 云: ‘某方在此措處得略好, 正抵當得虜人住. 大功垂成, 而主上乃令追還, 何也?’ 魏云: ‘主上方與大金講和, 以息兩國之民, 恐邊將生事敗盟, 故欲召公還, 愼勿違上意! ’韓再三歎息, 以爲可惜. 又云: ‘旣上意如此, 只得抽軍歸耳.’ 遂命士卒束裝, 卽日爲歸計. 魏遂渡淮, 兀朮問以韓世忠已還否. 魏答以某來時, 韓世忠正治疊行, 卽日起離矣. 兀朮再三審之, 知其然, 遂稍弛備. 世忠乘其懈, 回軍奮擊之, 兀朮大敗. 魏良臣皇恐無地, 再三哀求, 云: ‘實見韓將回, 不知其紿己.’ 乃得免.”
- 131:22 因言: “陳同父上書乞遷都建康, 而曰: ‘黃帝披山通道, 未嘗寧居. 今宮室臺榭·妃嬪媵嬙之盛如此, 如何動得?’ 高宗本遷都建康了, 卻是趙忠簡打疊歸來. 蓋初間虜人入寇, 群臣勸高宗躬往撫師, 行至平江而止. 繼而淮上諸將相繼獻捷, 趙公得人望, 正在此時. 已而欲返臨安, 適張魏公來, 遂堅勸高宗往建康. 及淮師失律, 趙公荒窘, 遂急勸高宗移歸臨安, 自此遂不復動矣. 看趙公後來也無柰何, 其勢只得與虜人講和. 是時已遣王倫以二十事使虜, 約不稱臣, 以濁河爲界, 此便是講和了. 後來秦檜力排趙公, 遂以不肯講和之罪歸之, 使萬世之下趙公得全其名者, 乃檜力也.” 問張趙二公優劣. 曰: “若論理會朝政, 進退人才, 趙公又較縝密, 無疏失. 若論擔當大事, 竭力向前, 則趙公不如張公. 張公雖是竭力擔當, 只是他才短, 慮事疏處多. 盡其才力, 方照管得; 若才有些不到處, 便弄出事來, 便是難. 趙公也是不諳軍旅之務, 所以不敢擔當. 萬一虜人來到面前, 無以應之, 不若退避耳.” 僩(69이후). <儒用錄云: “或問: ‘趙忠簡公與魏公材品如何?’ 曰: ‘趙公於軍旅邊事上不甚諳練, 於國事人才上卻理會得精密, 仍更持重, 但其心未必如張公辨得爲國家擔當向前. 自中興以來, 廟堂之上主恢復者, 前有李伯紀, 後有張公而已. 但張公才短, 處事有疏略處. 他前後許多事, 皆是竭其心力而爲之. 少有照管不到處, 便有疏脫出來.’”>
- 131:23 問: “趙忠簡行狀, 他家子弟欲屬筆於先生. 先生不許, 莫不以爲疑, 不知先生之意安在?” 曰: “這般文字利害, 若有不實, 朝廷或來取索, 則爲不便. 如某向來張魏公行狀, 亦只憑欽夫寫來事實做將去. 後見光堯實錄, 其中煞有不相應處, 故於這般文字不敢輕易下筆. 趙忠簡行實, 向亦嘗爲看一過, 其中煞有與魏公同處. 或有一事, 張氏子弟載之, 則以爲盡出張公; 趙公子弟載之, 則以爲盡出趙公. 某旣做了魏公底, 以爲出於張公, 今又如何說是趙公耶? 故某答他家子弟, 盡令他轉托陳君擧, 見要他去子細推究, 參考當時事實, 庶得其實而無牴牾耳.” 問: “張趙都是好宰相, 未知人品如何?” 曰: “他兩箇當初都要協力出來主張國事, 只緣後來有些不足, 遂做不成. 以某觀之, 趙公未免有些不是處.” 曰: “何以見之?” 曰: “且如淮上旣敗, 張公旣退, 趙公復相, 凡張公所爲, 一切更改. 張公已遷都建康, 卻將車駕復歸臨安; 張公所用蜀中人才, 一皆退之. 觀此, 似亦趙公未免有不是處也.” 曰: “臨安駐蹕聞之立意不欲安於此耳. 又嘗聞長老之言, 有植竹於內庭者, 趙公見而拔之, 曰: ‘汝欲安於此乎?’ 然則再歸臨安, 恐必有爲, 非是與魏公相反也. 又見趙公遺事有一條說張公罷相, 趙公復相事甚詳. 云: ‘德遠所用人才, 如馮如熊等在朝諸人, 趙公皆更用之, 亦豈得謂之故與張公相反乎?’” 先生曰: “拔竹之事, 似是汪端明所記, 但某未敢深信. 嘗記張公欲行遣一內臣, 趙公但欲薄責之, 蓋恐其徒或來報復. 如此, 則拔竹事其能然乎! 至於收用蜀中人才, 恐未必然也. 大抵張公才疏意廣, 卻敢擔當大事. 至於趙公卻深曉事, 其於人才世務區處得頗精密; 至於擔當天下事, 恐不及張公也.” 枅(미상).
- 131:24 張魏公材力雖不逮, 而忠義之心, 雖婦人孺子亦皆知之, 故當時天下之人惟恐其不得用. 若海(道夫-60이후-아들).
- 131:25 “杜子美詩云: ‘艱危須藉濟時才.’ 某思至此, 不覺感歎! 濟時才, 分明是難得.” 直卿問: “志與才互相發否?” 曰: “有才者未必有志, 有志則自然有才. 人多言張魏公才短, 然被他有志後, 終竟做得來也正當.” 道夫(60이후).
- 131:26 明受之禍, 魏公在江中, 忽有人登其舟, 公問爲誰, 云: “苗太尉使我來殺相公.” 公云: “汝何不殺我?” 云: “相公忠義, 某們不肯做此事. 後面更有人來, 相公不可不防備!” 公問姓名, 不告而去. 欽夫云. 德明(44이후).
- 131:27 “孝宗初, 起魏公用事. 魏公議論與上意合, 故獨付以恢復之任, 公亦當之而不辭. 然其居廢許時, 不曾收拾人才, 倉卒從事, 少有當其意者. 諸公多薦査元章籥, 江凌人. 馮圓仲, 方, 蜀人. 魏公亦素相知, 辟置幕府. 朝廷恐其進太銳, 遂以陳福公唐立夫參其軍, 以二人厚重詳審故也. 緣唐立夫亦只是箇淸曠·會說話·好骨董·談禪底人, 與魏公同鄕里, 契分素厚, 故令參其軍事.” 因笑曰: “正如趙元鎭相似, 那邊一面去督戰, 這邊一面令回軍, 成甚擧措! 魏公旣失利, 遂用湯進之. 未幾, 虜人再來, 湯往視師, 辭不行. 又命王瞻叔, 瞻叔又辭不行. 蓋魏公初罷淮上宣撫時, 朝廷命王治其錢穀. 瞻叔極力搜索, 軍士皆忿怨. 若往, 必有一場大疏脫, 蓋是時軍士已肆言欲殺之矣.” <沈莊仲云: “嘗見先生說, 魏公被李顯忠邵宏淵二將說動, 故決意進兵. 旣而唐陳二公皆不從. 魏公令問二將, 二將曰: ‘聞虜人積糧運芻於虹縣靈壁矣. 秋高馬肥, 必大擧南寇. 今若不先其未發而破之, 及其來, 莫說某輩不肯用心.’ 二公聞此言, 故亦從之. 魏公旣入奏事, 淹留一兩月. 及還, 則已六月矣. 乘劇暑進兵, 以至於敗. 未幾, 魏公薨, 皆無人可用. 幸而復與虜人講和, 乃定.”> 儒用(70때).
- 131:28 “張魏公初召來, 縉紳甚喜. 時湯進之在右揆, 衆以爲魏公必居左. 旣而告庭雙麻, 湯遷左, 魏公居右, 凡事皆爲湯所沮. 魏公不得已, 出視師, 言官尹穡陰搖撼之. 一日, 陳良翰邦彦上殿, 言及此. 壽皇云: ‘安有此事! 當今群臣誰出魏公之右者? 恐是臺諫中陰有所沮, 卿可宣諭之.’ 陳退, 自念臺諫中某人某人姓名失記. 皆主魏公, 只有尹一人意異. 然上旨如此, 不可不宣諭, 遂以上意達諸人. 尹云: ‘某明日亦上殿.’ 旣不見報, 次日又上殿. 繼而有旨, 陳知建寧, 魏公遂罷.” 問: “湯後來罪責如何?” 曰: “渠建議和親, 以四州還之, 而虜復犯淮, 壽皇怒, 免官, 削爵土.” 可學(62때).
- 131:29 張魏公被召入相, 議北征. 某時亦被召辭歸, 嘗見欽夫與說, 若相公誠欲出做, 則當請旨盡以其事付己, 拔擢英雄智謀之士, 一任諸己, 然後可爲. 若欲與湯進之同做, 決定做不成, 後來果如此. 然那時又除湯爲左相, 卻把魏公做右相. 雖便得左相, 湯做右相, 也不得. 何況卻把許多老大去爲他所制! 後來乖. 此只要濟事, 故不察, 外人見利害甚分明. 賀孫(62이후).
- 131:30 因論張魏公湯思退主戰和, 曰: “亦不可徒從上言戰, 以拗太上. 太上以故兩番不曾成了, 所以怕主戰者. 須是做得模樣在人眼前, 敎太上看得, 自信其可以戰, 則自無說也.” 揚(54-6때).
- 131:31 張魏公不與人共事, 有自爲之意. 也是當時可共事之人少, 然亦不可如此, 天下事未有不與人共而能濟者. 汪明遠得旨出措置荊襄, 奏乞迂路過建康, 見張公. 張公不與之言, 問亦不答. 揚(54-6때).
- 131:32 張魏公可惜一片忠義之心而疏於事. 亦是他年老, 覺得精神衰, 急欲成事, 故至此. 兼是朝廷諸公不能, 得公用兵, 幸其敗, 以爲口實. 初間是李顯忠邵宏淵請於公, 以爲虜人精兵在虹縣矣, 俟秋來大擧南寇. 今若不先破其巢穴, 待他事成驟至, 某等此時直當不得. 公問其實否, 李忠顯邵宏淵便云: “某人之語甚詳.” 卽不僉聽, 呼二人議, 其說如前. 公曰云云, 於是卽動, 不知如何恁地輕率! 德明(44이후).
- 131:33 魏公言: “元祐待熙豐人太甚, 所以致禍. 人無君子小人, 孰不可爲善?” <此是其父賢良之說.> 汪書答云: “又有如何大圭者.” <何爲張所禮, 後譖張于秦.> 公云, 便是這般人云云. 先生謂汪書云: “若某則曰: ‘公嘗深於易, 易只言君子小人. 今若言無小人, 是無用易也!’” 方(41때).
- 131:34 秦會之入參時, 胡文定有書與友人云: “吾聞之, 喜而不寐!” 前輩看他都不破如此. 淳(61·70때). 秦檜.
- 131:35 翟公巽知密州, 秦檜作敎授. 一日, 有一隱者至, 會相, 曰: “此敎授大貴.” 翟問: “與某如何?” 曰: “翰林如何及之! 如何及之!” 時游定夫在坐, 退因勉秦云: “隱者甚驗, 幸自重.” 游因說與胡文定曰: “此中有箇秦會之好.” 胡問如何, 曰: “事事裏不會.” 秦後於陳應之處問游. 後云, 曾爲游酢知云. <上蔡言於陳應之, 應之言於先生. 下“事事裏不會”, 籍溪言於先生.> 揚(54-6때).
- 131:36 問胡文定公與秦丞相厚善之故. 曰: “秦會之嘗爲密敎, 翟公巽時知密州, 薦試宏詞. 游定夫過密, 與之同飯於翟, 奇之. 後康侯問人才於定夫, 首以會之爲對, 云: ‘其人類荀文若.’ <又云, 無事不會.> 京城破, 虜欲立張邦昌, 執政而下, 無敢有異議, 惟會之抗疏以爲不可. 康侯亦義其所爲, 力言於張德遠諸公之前. 後會之自海上歸, 與聞國政, 康侯屬望尤切, 嘗有書疏往來, 講論國政. 康侯有詞掖講筵之召, 則會之薦也. 然其雅意堅不欲就, 是必已窺見其微隱有難處者, 故以老病辭. 後來會之做出大疏脫, 則康侯已謝世矣. 定夫之後, 及康侯諸子, 會之皆擢用之.” <時在坐范兄云: “定夫之子不甚發揚. 秦老數求乃翁論語解序, 因循不果錄呈. 其侄有知之者, 遂黙記之. 一日進見秦老及此, 則擧其文以對, 由是喜之. 後故擢至侍從, 是爲子蒙尊人.”> 又曰: “此老當國, 卻留意故家子弟, 往往被他牢籠出去, 多墜家聲. 獨胡明仲兄弟卻有樹立, 終是不歸附他. 嘗問和仲先世遺文, 因曰: ‘先公議論好, 但只是行不得.’ 和仲曰: ‘聞之先人, 所以謂之好議論, 政以其可以措諸行事. 何故卻行不得?’ 答曰: ‘公不知, 便是六經, 也有說得行不得處.’ 此是這老子由中之言. 看來聖賢說話, 他只將做一件好底物事安頓在那裏.” 又曰: “此老千鬼百怪, 如不樂這人, 貶竄將去, 卻與他通慇懃不絶. 一日, 忽招和仲飯, 意極拳拳. 比其還家, 則臺章已下, 又送白金爲贐. 按: 程子山諸公在貶所, 俱有啓事謝其存問者, 皆此類也. 如欲論去之人, 章疏多是自爲, 以授言者, 做得甚好. 傅安道諸公往往認得, 如見彈洪慶善章, 曰: ‘此秦老筆也.’” 儒用(70때). <德明錄云: “秦相曾語胡和仲云: ‘先丈議論固好, 然行不得.’ 和仲問: “旣是議論好, 何故不可行?’ 秦云: ‘仲尼垂世立敎, 且說箇道理如此以示人, 如何便一一行得?’ 一日, 又語和仲云: ‘柳下惠降志辱身如何?’ 和仲對云: ‘降志辱身, 是下惠之和. 未若夷齊不降其志, 不辱其身.’ 秦曰: ‘不然. 也有合降志時, 合辱身時.’ 先生曰: ‘秦老自再相後, 每事便如此.’ 陳剛云: ‘向見東萊說秦老語和仲云: “先丈說‘敬以直內, 義以方外’, 一句是, 一句不是. 我只是‘敬以直內’.” ’”賀孫錄云: “胡寧爲太常丞, 上令錄遺文看. 寧遂告兄寅. 寅繕寫表進, 更以副本獻秦檜. 檜看畢, 卽謂和仲曰: ‘都使不得.’ 和仲曰: ‘某聞之先人, 皆是可用之語. 丞相如何說使不得?’ 曰: ‘論語孟子許多說話, 那曾是盡使得? 只是也要後人知得有許多說話.’ 又一日, 問和仲曰: ‘賢道“敬以直內, 義以方外”, 是兩事? 是一事?’ 和仲曰: ‘聞之先人, 這只是一事.’ 檜曰: ‘賢後生不識, 某看來只是上一句用得.’ 和仲曰: ‘這是聖人兩句法語, 丞相如何道只一句用得?’ 檜曰: ‘某平生所行, 只上一句. 賢說須著下一句, 賢且試方看.’ 聖賢法言無一非實用, 檜只作好說話看過. 平生如此, 宜其誤國也.” 可學錄云: “檜召五峰兄弟, 五峰辭甚力. 和仲言頗孫, 遂再召赴闕. 檜問: ‘來時仁仲何言?’ 曰: ‘家兄令稟丞相, 善類久廢, 民力久困.’ 檜不答. 問和仲曰: ‘“敬以直內”, 只行上一句, 下一句只與賢行.’ 只曰: ‘文定文字甚好.’ 和仲進此文字, 以副本納之. 檜云: ‘只是行不得.’ 和仲再三問: ‘旣好, 何故行不得?’ 檜云: ‘孔孟言語, 亦有行不得. 寫在策上, 只是且敎人知得此.’” 又, 揚錄云: “太上一日問胡和仲: ‘文定春秋外, 更有甚文字?’ 胡曰: ‘只有幾卷家集.’ 上曰: ‘可進來.’ 遂進之. 後秦檜問胡曰: ‘先丈文字進了?’ 連說‘先丈好議論’, 三四句後, 曰: ‘只是一句也行不得.’ 胡曰: ‘議論好時, 只是謂好行. 相公旣說好, 如何行一句不得?’ 曰: ‘不特先丈文字如此, 聖賢議論, 亦豈盡可行! 只是且敎世間人知得有這一般道理.’” 又, 燾錄云: “或問‘信而好古’曰: ‘而今人多不好古, 皆是他不信.’ 因擧秦會之嘗與胡和仲說: ‘如先公解春秋, 儘好議論, 只是無一句行得.’ 對曰: ‘惟其可行, 方是議論. 若不可行, 則成甚議論?’ 秦曰: ‘且如周公孔子之言, 那有一句行得? 只是說得好, 所以存留在, 與後人看.’” 又, 璘錄云: “檜召胡和仲來, 問‘敬以直內, 義以方外’. 和仲之父子兄弟尋常以爲此兩句只是一事. 檜云: ‘不然. “敬以直內”可用, 某逐日受用便是. “義以方外”不可行.’ 和仲疑之. 檜云: ‘公試行看.’ 和仲上殿, 光堯索文定公文集, 因以副本呈. 檜云: ‘先公議論甚好, 但一句也行不得. 且如孔孟許多說話, 也只是存一箇好話, 令人知有此好話耳, 決不可行.’ 又問和仲: ‘“不降其志, 不辱其身”, 如何?’ 和仲旣解以對. 檜云: ‘合降志, 須著降; 合辱身, 須著辱.’ 和仲以太常丞權郎, 檜忽請喫酒五盃, 歸而章疏下矣. 檜之不情如此.”>
- 131:37 秦檜聞富季申言, 深有感. 歸, 出謂富曰: “元來作相當如此!” 後來所爲, 皆得之於此. 不知其說, 然大率保位之術耳. 揚(54-6때).
- 131:38 秦檜初罷相, 出在某處, 與客握手, 夜語庭中. 客偶說及富公事, 秦忽掉手入內. 客莫知其故. 久之方出, 再三謝客云: “荷見敎.” 客亦莫知所謂, 扣問, 乃答云: “處相位, 元來是不當起去!” 是渠悔出, 偶投其機, 故發露如此. 趙丞相初亦不喜之. 及其再入, 全然若無能, 趙便謂其收斂, 不做一聲, 遂一向不疑之, 亦不知其如此. 胡康侯初甚喜之, 於家問中云: “秦會之歸自虜中, 若得執政, 必大可觀.” 康侯全不見得後來事, 亦是知人不明. 又云: “秦會之是有骨力, 惜其用之錯.” 或問: “他何故不就攻戰上做?” 曰: “他是見得這一邊難成功, 兼察得高宗意向亦不決爲戰討計.” 賀孫(62이후).
- 131:39 問: “富直柔握手之語, 不審何說?” 曰: “往往只是說富公後來去朝廷使河北, 被人讒間等事. 秦老聞之, 忽入去, 久之不出, 富怪之. 後出云: ‘元來做宰相是不可去! ’秦旣再入, 遂譖魏公於趙公. 又因唐暉等二事傾去趙相, 一向自做, 更不肯去. 胡和仲嘗勸秦云: ‘相公當國日久, 中外小康, 宜請老以順盈虛消息之理.’ 秦曰: ‘此事不然, 我當時做這事, 尙拖泥帶水, 不曾了得.’ 問: ‘何事未了?’ 曰: ‘是未取得他中原.’ 曰: ‘若取中原, 必須用兵, 相公是主和議者.’ 曰: ‘我從來固不主用兵. 然虜自衰亂, 不待用兵, 自可取.’ 後來楊安止亦有箚子勸秦相去位, 秦相大率如對和仲者. 於是不樂, 安止遂坐此去國. 不然, 安止亦順做從官.” 先生曰: “不曉他要取中原之意. 後來見陳國壽璹說, 秦老初欲以此事付國壽, 擬除它廬帥. 陳云: ‘荷朝廷任使, 帥長沙廣西皆內地. 若邊帥, 當擇才. 某於軍旅事素不習, 恐敗事.’ 其議遂已. 竊意秦老只是要兵柄入手, 此事做未成. 若兵柄在手, 後來必大段作怪.” 德明(44이후).
- 131:40 秦太師與呂並相. 呂出甚所在, 秦一時換了臺諫人物. 呂聞之, 不平. 有客告之云, 其黨魁乃胡文定, 可逐去, 則秦不足慮. 呂如其言, 歸而諷臺諫論之. 秦爭於上, 遂倂論秦. 高宗欲罷其相, 令人行詞. 當時秦所引皆是好人, 而立朝無過, 人皆不平. 行詞者遂求御批, 以疏其罪. 高宗遂批與之, 大略云: “其未相時, 說作相數月可以致治; 旣相, 皆無所建明.” 後來秦再相, 數年之後, 卻奏過, 以爲當初無過, 爲人所讒. 遂行下詞臣家索御批. 旣得之, 則以納於高宗, 其無禮不臣如此! <可學錄云: “秦會之初罷相, 高宗親批, 付綦叔厚草麻, 御書藏綦氏. 及秦氣焰盛, 自廣倅移某人知台州, 於其家索出, 而納於高宗. 某人潮州人.”> 又, 當時史館有宰臣拜罷錄, 已載此罷相時事, 亦有士大夫錄得此書. 秦已改史館之書了, 又行下收民間所藏者. 德明(44이후). <揚錄云: “秦前罷相時, 有御批其罪狀, 與翰林學士綦密禮行詞. 後再相, 令人於綦家搜索之, 自於上前納了. 兄秦楚材作翰林之類官, 上以檜故, 亦眷其人, 檜亦忌而出之.”>
- 131:41 因話及秦丞相, 問: “當時諸公皆入虜, 渠何以全家得還?” 曰: “此甚可疑. 當和親時, 王倫自虜至, 欲高宗屈膝, 中外憤怒. 秦老出, 有人牓云: ‘秦相公是細作.’ <揚錄云: “都下甚憤, 似有欲殺之之意. 一日, 在甚寺中聖節, 一樹上貼一榜子云: ‘秦相公是細作.’”> 是時陳應之正同到廟堂, 問和親之故. 秦云: ‘某意無他, 但人主有六十歲老親在遠, 須要取來相聚.’ 因顧左右, 令取國書與應之看, 乃是詔書. 秦捲其前後, 只見中間云: ‘不求而得, 可謂大恩.’ 蓋指河南也. <先生言畢云: “此事當記取, 恐久後無人知之者.”> 當時虜中諸將爭權, 廢劉豫, 以河南歸我, 乃是獺辣. 獺辣旣誅, 兀朮用事, 又欲背約. 是時命樓炤簽書密院, 爲宣撫, 辟鄭亨仲又一人, 記不全. 爲屬, 至蜀見吳玠. 玠曰: ‘某有一策. 昔失陝西五路, 最爲要害. 今虜人以河南歸我, 而陝西在其中, 可謂失策, 徐必悔悟. 今不若移近蜀之兵, 進而據之, 則猶庶幾. 稍遲, 則不及事矣.’ 樓云: ‘此策固善, 但某不敢專, 須奏朝廷.’ 亨仲因力奏之, 卽莫奏. 未數日, 虜兵已下陝西矣. 當時下河南止用單使. 有一相識, 姓名失記. 爲蔡州平輿尉. 一日弓手報: ‘天使至, 縣尉當出迎.’ 曰: ‘天使何人?’ 曰: ‘北使.’ 曰: ‘我南朝官, 不可拜北使.’ 曰: ‘如此, 則官人可歸矣.’ 乃爲辦兩車, 幷骨肉送之入南境. 旣而使到, 縣官皆投拜, 蓋本北人未換者.” 可學(62때). <僩錄云: “胡明仲與秦檜爭和議於朝堂. 秦無語, 但取金人所答國書, 以手急卷, 箝其兩頭, 止留中間一行示明仲云: ‘不求而得, 可謂大恩.’ 字如掌大. 時虜人初以河南之地歸我也. 先生親見致堂說.” 揚錄云: “秦老講和後, 曾取得河南地. 關中五路, 地連河南, 盡得之. 時令樓炤往守, 鄭剛中在幕. 吳玠云‘今與之講和極是’云云. ‘今得五路, 須急發兵守之. 某守某處, 令誰守某處, 要急爲之. 虜人只是不曾思量, 恐覺便來取.’ 當時他人亦以爲常, 惟鄭剛中擊節稱是. 因言‘鄭才識高’云云. 樓曰: ‘某來時不曾得旨, 須著入文字.’ 鄭曰: ‘可急入文字.’ 未幾, 虜人取去矣.”>
- 131:42 秦檜倡和議以誤國, 挾虜勢以邀君, 終使彝倫斁壞, 遺親後君, 此其罪之大者. 至於戮及元老. 賊害忠良, 攘人之功以爲己有, 又不與也. 若海(道夫-60이후-아들).
- 131:43 李泰發參政, 在上前與秦相爭論甚力, 每語侵秦相, 皆不應. 及李公奏事畢, 秦徐曰: “李光無人臣之禮!” 上始怒. 德明(44이후).
- 131:44 秦檜初主和議時, 擧朝無人從之. 遂奏太上曰: “乞召李光來問如何.” 遂召至. 未對時, 全不得見人, 不知如何與秦檜相見. 秦待之, 酒行, 如誤言云: “滿斟參政酒.” 時光爲尙書之類. 光聞“參政”之言, 秦遂與論和議如何, 光贊之. 次日對陳和議之是, 和議遂定, 遂參政. 光性剛, 雖暫屈, 終是不甘, 遂與秦檜謅. 秦所判文, 光取塗改之. 後爲秦治, 過海歸死. 揚(54-6때).
- 131:45 章貢軍叛, 上不知. 一日, 問如何, 秦曰: “軍人們閑相爭之類, 已令人去撫定矣.” 問是誰說. 上初不言, 詰之, 乃曰: “兒子說.” 遂尋別事罰俸, 三月不支. 揚(54-6때).
- 131:46 施全刺秦檜, 或謂岳侯舊卒, 非是. 蓋擧世無忠義, 這些正義忽然自他身上發出來. 秦檜引問之曰: “你莫是心風否?” 曰: “我不是心風. 擧天下都要去殺番人, 你獨不肯殺番人, 我便要殺你!” 賀孫(62이후).
- 131:47 胡邦衡作書, 記當時事. 其序云: “有張扶者, 請檜乘副車. 呂愿中作秦城王氣圖.” 他當初拜相罷去, 極好. 再來, 卻曰: “前日但知道行則留, 不行則去, 今乃知不可去.” 漸漸便到此田地. 及至極處, 亦顧其家, 曹操下令云云是也. 問霍光. 先生曰: “霍光無此心, 只是弑許后一事不發覺, 此大謬.” 又問秦氏科第. 先生曰: “曾與汪端明說, 此是指鹿爲馬. 汪丈云: ‘只是無見識.’” 可學(62때). <璘錄云: “‘秦太師專政時, 張扶, 或云張柄, 請乘副車. 呂愿中作秦城王氣詩以獻, 檜皆受不辭. 呂知靜江府, 府有驛名秦城, 忽傳言有王氣. 呂作詩與僚屬和之, 成冊以獻. 此見胡邦衡所作紹興間被貶逐人事實序. 熊子復欲作一書記其事, 從其子借之. 或云, 非邦衡所作.’ 又曰: ‘私科擧, 或云恐是愚弄天下之人, 指鹿爲馬之意.’ 汪聖錫云: ‘恐不如此, 只愚騃耳.’ ‘初時人以伊周譽檜, 末後人以舜禹譽檜, 檜亦受之. 大抵久執權柄, 與人結怨多. 才欲放下, 恐人害己. 似執守不放, 其初未必有邪心, 到後來漸漸生出, 皆是鄙夫患失之謀耳.’”>
- 131:48 問: “張魏公行狀, 秦相叛逆事如何?” 曰: “當時煞有士大夫獻謀者, 亦有九錫之議矣, 吳曾輩是也.” 振(미상).
- 131:49 秦檜在相時, 執政皆用昏庸無能者, 如汪渤章夏董德元皆一類人. 太上一日問處州兵反事, 秦久未對. 章夏在後, 恐秦忘之, 因對一句. 後秦語之曰: “檜不能對時, 參政卻好對. 檜未對, 參政何故便如此?” 卽時逐去之. 興化林大鼐爲士人, 時對策, 言自宣政以來, 人無節義. 後得秦檜於虜中, 乞立趙氏, 節義可取. <時秦被黜閑居.> 後秦知之, 大擢用. 一日在經筵, 因講得甚稱上意, 上喜, 賜一帶, 秦逐出之. 揚(54-6때).
- 131:50 秦檜每有所欲爲事, 諷令臺諫知後, 只令林一飛輩往論之. 要去一人時, 只云劾某人去, 臺諫便著尋事上之. 臺諫亦嘗使人在左右探其意, 纔得之, 卽上文字. 太上只是慮虜人, 故任之如此. 及秦死, 遂召陳誠之沈該万俟卨金安節諸人, 以誠之輩嘗爲奉使, 沈嘗以贓罷官, 後以上書言講和進用, 皆秦黨也. 秦死封王, 禮數之類皆得. 又一面行遣昔時諫臺, 爲皆附會權臣. 揚(54-6때).
- 131:51 秦檜舊作好文時, 亦多有好相識. 晩年都不與他, 一切壞了. 一日, 謂和仲曰: “舊時亦煞有好相識, 後皆不濟事. 近來卻有幾人好.” 如曹泳湯思退輩, 皆其晩年所信用者. 曹凶險狡獪之甚, 秦之妻兒親黨, 皆爲其所離間. 秦信愛之如子, 然皆在其籠絡中矣. 決定後來推秦作一大惡事, 旋害了秦而自爲之. 秦死, 其妻兒啣之, 泣訴於太上, 謂秦時多事皆曹爲之, 遂編直海外而死. 曹妻亦自狡, 要令一人軍將等去取曹喪, 恐其不從, 先敎一婢子云: “你待我使其人不從, 你便倒地作侍郎語云: ‘平日受我多少恩. 你若不從, 我卽有禍及汝!’” 及使其人, 果有不肯從意. 婢遂倒地如其言, 其人拜告, 卽請行. 蓋曹平日詭怪, 家習之也. 然曹有才可用, 知紹興日, 當聖節, 吏人呈年例, 店家借紫絹結甚物事. 曹云: “不必借, 看每年軍人緋紫衫要幾多絹.” 遂檢籍所用, 與此所用不爭多. 遂取出染結了, 卻將染緋紫, 遂不擾. 知臨安日, 當拜郊, 郊壇要若干土朱刷, 年例先出錢買朱. 吏人呈, 曹曰: “不要.” 近郊壇有赤黃土, 先令人將炭若干斤放彼處, 臨期不遠, 令諸鐵匠於彼處放炭, 如何燒土, 以膠和塗其壇, 遂省錢多少. 天下事無不理會得, 只是凶惡, 可畏甚戚里. 又, 秦檜之子娶其兄女. 揚(54-6때).
- 131:52 秦檜己亥年冬死. 未死前一二年間, 作一二件無狀底事, 起獄斷送士大夫之類. 近死兩年, 朝不保暮, 日日起獄, 凶焰張大可畏. 黃豐知興化日, 有人有一弟, 因爭兄財不與, 遂以其兄嘗編錄得胡銓上書, 言秦檜緊要數語, 告以爲兄罵秦太師. 官司亦以尋常, 不曾爲理會. 時有一囚, 與爭財弟同獄, 問得其首尾. 其囚配卒, 不記何州. 一日, 福州帥張某過, 其人直訴之於帥, 爲有人罵太師, 黃不爲理會. 帥上其事於秦, 卽時攝取黃下大理, 幷其妻孥皆繫之. 遂勘閩中何處州海島上有林二十三娘, 適度甚物事, 追之. 尉卽往海上收一二老婦女, 林幾娘皆有之, 俱無林二十三娘. 鄕老云: “此中只有一廟, 是林二十三娘廟.” 遂令鄕老供文字去, 且休了. 黃不曾有一分事, 亦追官勒停. 揚(54-6때).
- 131:53 殺岳飛, 范同謀也. 胡銓上書言秦檜, 檜怒甚, 問范: “如何行遣?” 范曰: “只莫採, 半年便冷了. 若重行遣, 適成孺子之名.” 秦甚畏范, 後出之. 揚(54-6때).
- 131:54 王次翁, 河東人, 曾做甚官, 已致仕. 秦檜召來作臺官, 受檜風旨治善類, 自此人始. 揚(54-6때).
- 131:55 王循友彦霖家子孫. 知建康, 辭秦而往. 問有何委, 秦曰: “亦無事. 只有一親戚在彼, 秦之甥. 極不肖, 恐到庭下, 爲痛治.” 及到任, 其人果犯來, 與痛治喫棒之類. 其人母骨肉訴之秦, 秦大怒, 卽尋一事加於王. 王得罪, 妻孥皆配了, 婦女皆爲軍人所娶. 揚(54-6때).
- 131:56 建人黃公達作太守有贓, 提領韓美成<績家子弟. >欲治之. 黃已去, 告之朝士. 朝士曰: “公能作一件, 不惟可以解此, 又可以得美官, 但恐公尙有所惜, 不肯爲耳.” 黃問如何. 曰: “公上殿, 能以箚子言曾天隱李彌遜之徒不主和議, 宜罪之.” 黃卽爲之, 秦檜大喜, 卽擢爲察院. 韓徑使人守察院門, 云: “黃察院有公事未了, 要去理會.” 秦見不是道理, 遂罷黃. 揚(54-6때).
- 131:57 興化一傅丈云: “秦今諸子孫, 皆其夫人王家人. 林一飛乃秦作敎官時婢所生, 夫人不容, 與同官林家人養. 秦後欲取歸, 未遂而死. 後其黨人欲爲料理, 其夫人自陳云: ‘妾有幾子, 林非是.’ 林遂貶何地. 林死有子, 今皆無祿, 乃檜親孫也.” <林居興化.> 揚(54-6때).
- 131:58 秦太師死, 高宗告楊郡王云: “朕今日始免得這膝褲中帶匕首!” 乃知高宗平日常防秦之爲逆. 但到這田地, 匕首也如何使得! 秦在虜中, 知虜人已厭兵, 歸又見高宗亦厭兵, 心知和議必可成, 所以力主和議. 獺辣主事, 始定和議. 至次年, 兀朮殺獺辣而畔盟, 至順昌, 爲劉信叔所敗; 至楚州, 又爲糧絶, 兵師離散, 方得成和. 若不喫這兩著, 亦恐未便成和. 太后自虜歸, 云, 某年月日, 虜人待之禮數有加; 至某年月, 又加禮; 又某年月, 又甚厚. 今以年月考之, 皆是我師克捷之時, 故虜懼而加禮. 禮極厚, 乃是順昌之捷. 高宗初見秦能擔當得和議, 遂悉以國柄付之; 被他入手了, 高宗更收不上. 高宗所惡之人, 秦引而用之, 高宗亦無如之何. 高宗所欲用之人, 秦皆擯去之. 擧朝無非秦之人, 高宗更動不得. 蔡京們著數高, 治元祐黨, 只一章疏便盡行遣了. 秦檜死, 有論其黨者, 不能如此. 只管今日說兩箇, 明日又說兩箇, 不能得了. 有薦張魏公者, 高宗云: “朕寧亡國, 不用張浚!”
- 131:59 問: “秦相旣死, 如何又卻不更張, 復和親?” 曰: “自是高宗不肯. 當渠死後, 乃用沈該万俟卨魏道弼, 又有一人. 此數人皆是當時說和親者. 中外旣知上意. 未幾, 又下詔云: ‘和議出於朕意, 故相秦檜只是贊成. 今檜旣死, 聞中外頗多異論, 不可不戒約.’ 甚沮人心. 當初有一二件事, 皆不是. 如檜家旣保全, 而專治其黨. 士大夫遭檜貶竄者, 敘復甚緩. 渠死得甚好, 若更在, 甚可畏. 當時已欲殺趙丞相之家, 旣加以反逆, 則牽聯甚衆, 見說有三十餘家皆當坐, 中外寒心! 高宗亦甚厭惡之, 但無如之何.” 問: “所以至於如此者, 何故?” 曰: “伊川云: ‘人主致危亡之道非一, 而逸欲爲甚.’ 渠當初一面安排, 作太平調度, 以奉高宗, 陰奪其權, 又挾虜勢以爲重.” 可學(62때).
- 131:60 秦老旣死, 中外望治. 在上人不主張, 卻用一等人物. 當時理會秦氏諸公, 又宣諭止了. 當時如張子韶范仲達之流, 人已畏之. 但前輩亦多已死. <上借問魏可.> 卻是後來因逆亮起, 方少驚懼, 用人才. 籍溪輪對, 乞用張魏公劉信叔王龜齡査元章, 又一人繼之. 時有文集, 謂之四賢集. 可學(62때).
- 131:61 好底氣數, 常守那不好底氣數不過. 且如秦檜在相位十一二年, 被他手殺了幾箇人, 又殺了許多人, 皆是他那不好底氣數到長了.
- 131:62 秦老是上大夫之小人, 曹泳是市井之小人. 揚(54-6때).